大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和59年(う)194号 判決 1984年9月30日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人土井義明作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官小林秀春作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

一、控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は、被告人は本件交通事故により重傷を負い、意識回復後も事故当時の記憶が全然回復しないまま公判手続を進められ、一審判決を受けたものであるが、現行法上、被告人は訴訟の一方の当事者として自己を十分防禦する権利(刑事訴訟法二九八条一項、同法三〇四条二項等)を与えられており、これらの権利を行使して防禦を十分ならしめるためには、被告人に事件当時の記憶があることが前提であるので、弁護人は原審第一回公判において被告人の記憶が回復するまで公判手続の停止を考慮されたい旨を申立て、重ねて第五回公判において公判手続停止の申立てをしたのに対し、原審はこれを却下して訴訟を進めたが、本件被告人のように事故当時の記憶を全く喪失している場合には、刑事訴訟法三一四条一項本文の規定を拡大解釈あるいは類推適用して、記憶が回復するまで公判手続を停止し、被告人の防禦権を保障すべきであるのに、この措置に出なかつた原審の訴訟手続には同条項の解釈適用の誤りがあり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、所論と答弁にかんがみ記録を調査して、次のとおり判断する。

被告人は、本件交通事故により頭部外傷Ⅲ型、右前頭側頭葉脳挫傷等の重傷を受け、原審当時本件事故について記憶の回復がなく、回復の見込みもなかつたこと、頭部外傷によつて被告人のような健忘症が起り得ること、弁護人が原審第五回公判において論旨と同旨の書面にもとづき公判手続停止の申立をしたが、原審は公判手続を停止せずに審理を進めて終結し、第六回公判で被告人に原判決を言渡したことはそれぞれ認められるが、原審第一回公判においては、弁護人は所論のように公判手続停止の申立をしたものではなく、「現在、被告人が刑事訴訟法上の心神喪失の状態にあると考えておらず、公判手続の停止を求めるものではないが、この点を十分に斟酌されたい。」旨を陳述したにとどまり、以後第四回公判まで異議なく公判手続が進行していたことが認められる。

刑事訴訟法三一四条一項本文にいう「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち一定の訴訟行為をなすに当り、その行為の意義を理解し、自己の権利を守る能力(昭和二九年七月三〇日第二小法廷決定、刑集八巻七号一二三一頁)が無い状態をいい、この場合の公判手続停止は被告人の防禦権を保障する趣旨であるところ、被告人の犯行についての記憶喪失と同条項の「心神喪失」との関係について考究するのに、犯行状況について記憶の存することが防禦権行使の前提又は要素をなすことは否定できず、例えば全く記憶がない場合には、証人に対する反対尋問権の行使が困難となり、弁護人との打合わせ等にも支障をきたすことは容易に考え得るのであるが、記憶喪失といつてもその程度や範囲が場合によつて異なるであろうし、またそれが防禦に与える不利益も常に同一とはいえないから、記憶の喪失が直ちに「心神喪失の状態」に当ると解すべきではなく、個々の具体的な訴訟の状態から判断して、記憶喪失に起因する防禦の不利益が著しいと認められるような場合においては、同条項を類推適用して公判手続の停止が可能となる余地もあると解するのが相当である。

これを原審公判手続の経過についてみると、第四回公判まで証拠調が進められ、その間本件交通事故の態様等が客観的な証拠によつて明らかになり、弁護人は被告人に不利益と考えられる書証はすべて同意せず、検察官の申請した証人に対し反対尋問を尽くし、被告人も供述すべきことは供述していると考えられること等に徴すると、被告人の記憶喪失により防禦権の行使に著しい不利益が生じていることは認められないから、公判手続を停止しなかつた原審の訴訟手続に所論のような法令の解釈適用の誤りは存せず、論旨は理由がない。

二、控訴趣意中、量刑不当の主張に

ついて<省略>

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(兒島武雄 荒石利雄 中川隆司)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例